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μ'sとAqoursと4th LoveLive!

ここ数日、ラブライブフェスの試聴動画が公開されたり、Aqours 4th LoveLive!の生放送があったりと、感情が揺さぶられる機会があった。その中で、いくつか思い至ったことがあるので、ここに書き記しておこう。あくまで私の妄想なので、あしからず。

 

 ラブライブ!はミュージカルだということ

まず述べておきたいのが、ラブライブ!は「ミュージカル」である、と認識することでμ’sをAqoursの物語への評価がガラリと変わるということである。ところが、この事実を認識できていない人は案外多いように感じる。

そう強く感じたのはラブライブ!サンシャイン!!のTVアニメ13話のこと。ラブライブ!東海地区予選のメンバーの語りの部分が、突拍子もない不自然な場面だ、と感じた人が多いように見受けられた。実際、twitterの実況では困惑している人が多かったと記憶している。この傾向はμ'sのときにもあり、特に2期から映画にかけての展開に違和感を持っていた人が多かったように思う。特に、「リアリティがない」、「そんなに上手くいかない」「SFや超能力だ」、「恥ずかしい」などといったものが多かったように思う。

しかし、「ミュージカル」であれば先の感想も意味を持たないものになる。ミュージカルの定義は割愛させていただくが、その中では、基本的に何でもあり、である。急に歌い、踊りだしたり、天気を変えてみたり、時間を止めてみたり。特に、「歌」は最重要な要素である。物語の合間に挿入され、その描写をより印象的なものにしたり、心情を具現化する。要は行為自体が問題なのではなく、「それによって何が表現されているか」ということが重要なのである。

そして、ラブライブTVシリーズには先の要素が多分に思い起こされることだろう。つまり、ラブライブTVシリーズはミュージカルとして描かれている物語なのである。ラブライブをミュージカルとして解釈すると、不自然に感じていた場面が意味を持つのは勿論のことなんとなく見過ごしていたところに大きな発見があったりする。

 

前置きが長くなったがここからが本題だ。

 

μ'sとAqoursの物語の対比

TVアニメシリーズがミュージカル作品であるとするなら、その主題を最も端的に表現しているのはOPテーマであると言える。そこで、μ'sとAqoursの物語をそれぞれ一期OPの歌詞から読み解いてみる。

結論から述べると両者の大きな違いは視点の違いにある。まずは僕らは今のなかでから見ていこう。

 

真っ直ぐな想いがみんなを結ぶ
本気でも不器用 ぶつかり合うこころ
それでもみたいよ大きな夢は
ここにあるよ 始まったばかり

(わかってる)
楽しいだけじゃない 試されるだろう
(わかってる)
だってその苦しさもミライ
(行くんだよ)
集まったら強い自分になってくよ
(きっとね)変わり続けて(We'll be star!)

それぞれが好きなことで頑張れるなら
新しい(場所が)ゴールだね
それぞれの好きなことを信じていれば
ときめきを(抱いて)進めるだろう

(怖がる癖は捨てちゃえ)とびきりの笑顔で
(跳んで跳んで高く)僕らは今のなかで

輝きを待ってた

 

 

特徴的なのは全体的に未来形やそれに準ずる表現が多用されていることだ。未来形であるということから考えられることは、「彼女たちには自覚の有無は問わず、既に進む先が見通せている」、もしくは「既にゴールに立ってそこからこの歌を歌っている」ということである。実際、アニメに置いて重要な役割を持っている曲の歌詞には客観(俯瞰)視点の表現が多い。また、メタ的に見ると、彼女たちはこのように進んでいきますよ、というストーリーの提示でもある。

 

つまり、一つだけ言えることは、彼女たちは確実に彼女たちのゴールに辿り着く(成功が約束されている)ということだ。

さらに、この歌詞の中で最も興味深い点が、唯一過去形で表現されている「輝きを待ってた」の部分であるのだが、これはまた他の機会に回したいと思う。

 

 また、ここで頭に留めておいて欲しい事実は3次元のμ'sはこの客観視点を共有できないということである。

これが後に説明するAqoursとの大きな相違点となる。

 

つぎに、青空jumping heartを見てみる。

 

見たことない夢の軌道 追いかけて

Shining Road
走り出すこの気持ち
まっすぐに勢いよく君を探してたよ
ちょっと待ってなんてムリ 飛び出そう
僕たちのなかの勇気がさわいでる

いつものセカイが 新しい扉を
(もっと)隠してるの
(Let's go!)ぜんぶ開けたいよ ほら、いっしょにね!

はじめたい!My Story(さあっいまだ)青い空が待ってる
夢を抱きしめてJumping Heart
それだけで明日へと進める 青春まっしぐら!?
はじまった時の(Sunshine Story)ときめきずっとだいじにね
夢をつかまえに行くよ
どんなことがおこるのか わからないのも楽しみさ

 

 

こちらの歌詞は”僕今”とは対称的に彼女たち目線の表現がされている。

印象的なフレーズとしては「見たことない」「青春まっしぐら!?」「どんなことがおこるのか わからないのも楽しみさ」が挙げられる。これらは既にゴールを見通せいていたμ’sときれいに対の表現になっており、明らかな「主観視点」で描写されている。このことから、どのようにしてゴールを見つけるのか、そしてその結果が大円団とは限らない、といったことを示唆していると解釈できる。

 

このいわば「客観」と「主観」の対比がストーリーにどのようのな違いをもたらすかといえば、μ’sの場合は、「既にゴールを見据えている」彼女たちはどのように成功までの道を歩むのか、といったことになるのかは明白であろう。そうして「輝いている」彼女たちに私達は惹かれ、「みんなで叶えた物語」となった。大げさに表現しすぎかもしれないが、彼女たちの立場は「神」または「預言者」と言い換えて良いのかもしれない。少なからず言えることは、TVアニメー劇場版を通してμ’sは全スクールアイドルと全ラブライバーの「シンボル」となったということである。

 

対して、Aqoursにおいては先のことが何もわからない。そのため、より一層彼女たちの感情や思考に重きが置かれる。彼女たちは廃校を阻止するために、輝くために、足掻いて足掻いて足掻き続ける。そんな泥臭いところにドラマが生まれ、私達の感情移入も大きくなり、魅力が生まれてくる、そんな作品であるように思う。ことAqoursについては2次元とAqoursが3次元のAqoursは主観視点を共有している。μ'sの後を託されたものの、未来のことは何も約束されておらず、彼女たち自身で切り開いて行くしかない。この置かれている境遇を共有することで、高いレベルでのシンクロが可能になる。例えば、3次元の声優が2次元のキャラクターに魂を吹き込むことが可能なら、その逆も高いレベルで行えるのではないだろうか。その結果、いささか強引ではあるがこう考えられないだろうか、「2次元のAqoursがミュージカルとして物語を紡いでいるのなら、3次元のAqoursもまたミュージカルとして物語を紡いでいる」と。私達の知り得ないところで平時のAqoursの時間(物語)は常に流れている。そして、LIVEこそがその時間を少しだけ止めて彼女たちが自身を私達に表現できるもの(アニメで言うところの挿入歌の役割)ではないだろうか。

 

ラブライブ!サンシャイン!! Aqours 4th LoveLive! ~Sailing to the Sunshine~

 

私達もまた、Aqoursと同じく主観視点で生きている。つまり私達も彼女たちの精神性を高いレベルで共有できるわけである。4th LoveLive!というミュージカルの中で最も重要な役割を果たす場面において、”No.10”で、はっきりと私達は物語をともにする存在だと明示され、「君と僕とで進むときだよ」と宣言される。そして、その先に成功が待っているわけではなく、後悔しないためには「がんばって挑戦」するしかないと歌い上げる。そのなかで私達はμ'sが示した「輝き」を追い求めることができ、「I live I live lovelive days!」と高らかに宣言できる。

そして、ようやく結論に達する。4thloveliveで私達はラブライブ!の物語の一部となった。μ's、A-RISE、AqoursSaint Snow虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会だけでなく、私達もラブライブ!の物語を紡いでいるのだ。そして、みんなで作り上げた祭典、ラブライブフェスへと続くわけである。

 

 

 

 最後に

今回の記事を読んでみて、μ'sに対する記述がそっけないと思う方がいるかもしれないし、私自身も少し冷めた表現になってしまったかなと自覚している。もちろん私自身μ'sが大好きであるが、μ'sと距離をおいている時間が長いこと、また、μ'sの客観性を記述するためにこのような表現になってしまった私の力不足をご容赦いただきたい。